昭和四十五(1970)年の岩舟石を用いた鐘楼
今日(2023/2/26)は、関東地方を春の嵐が吹き抜けた様だが、野田市内に残って居た幾つかの未調査の場所や、再確認したいと思っていた場所をまとめて調査した中に、岩舟石を用いた昭和四十五年の造立した鐘楼を観察する事が出来た。
昭和六十年頃には、国内の凝灰岩質石材採掘業者が、大谷石に駆逐されて廃業に追い込まれてしまったのだが、その予兆は既に昭和三十年代後半に顕著に現れていたのではないだろうかと思う。昭和四十年代(1965~)になると、大谷や芦野(白河)等以外の石造物は極端に新規造立が少なくなる。
岩舟石は千葉県にとっては、利根川から江戸川を分水する際の制水工に用いられた事で縁が深い石材で、旧「東京市」でも都市計画要の要を抑える重要な石材として大量に使われたらしいのだが、今は、青山葬儀所の石垣等、ごく限られた場所にしか残っていない。
この石材には、円磨されたチャートや、オリビンがたっぷり入った水冷玄武岩等の礫が入って居て、噴火の合間には川が流れた場所も有って、固結度が凄まじく変化するのが面白い。採掘場の中に、固結していない部分がドカンと横たわって居たり、手では持てない程のチャートの礫も混じって居る。花崗岩もたまに見つかるらしいから、足尾付近の地質に似ている。 砂埃の激しい一日だったが今日は良いものを観察させて頂いた。
この黒いのはオリビンが豊富な、水冷玄武岩の礫。薄片を偏光顕微鏡で観察した事が有るが美しい!
この付近には、小さなチャート礫がたくさん含まれている。熱を受けて少し変質するのか、やや透明感があるチャートが散見される。真ん中辺りの赤い色もその一つ
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